勝負、試合、戦争とは、そして反戦・スポーツ・ゲームとは何か
ここ最近優劣を決する事という概念において意味合いが曖昧になってきている。
そこで個人的に思う事を書かせて頂きたい
まず、勝負とは何か
まあ、これは誰も答えれるだろう
上か、下か。
上手いか、下手か。
優位に立つ者が上に立つ。
逆に強い人が自分より弱い人盲点を突かれる等され負けるという【柔を以て剛を制す】場合も然り。
試合とは何か
文字通り腕の試し合いと呼べばいいだろう。
分かりやすく言えば相手同士で実力を確かめ合うといったところか。
戦争とは
文字通り二分された勢力でどちらかが生き残る為に戦う事を指す。
さて、定期ツイートでも挙げているが、
【試合】と【戦争】では意味合いが違ってくる。
試合とは試し合いであり、戦争は生き残るか死ぬか。
しかもたかだかゲームで考えが過剰になる人が居たりする。
原因としては生活環境の影響が大きいと私個人的に考えている。
ゲームだけで生きてきたとか、何かを賭けてゲームで対戦し何かを貰ったとか等といった、些細な原因が後から大きくなって今のような形となってしまったのだろうと思う。
ではゲームって何の為にあるか
ゲームとは所謂、【電子空間上でのスポーツ】と私個人的に捉えている。
確かに生き残るかどうかという思考に陥り易いというのは理解出来る。が、元々何の為にゲームが生まれた事について考えた事はないだろうか?
ファミコン、ゲーム&ウォッチといったゲームの原点と言える物を製作した任天堂は何故このような物を生み出したかまで考えてみる事など最近の若い人達には考えなかっただろう。
今でこそスマートフォンが普及し携帯ゲームがいくらでも出来るが、
まだ携帯ゲームもあまり普及していない子供の頃を思い出してみろ。
自分はゲームをやっていて、周りには気になって画面を覗く人集り。次第に誕生日やらプレゼントで購入しエンジョイしていく人々。
ここまでゲームというカテゴリに対して深く考えていない癖に軽んじてゲームを語るんじゃないと最近の人々訴えたい。
ゲームとは元々楽しむ為に造られたというのに、試合と戦争をごちゃ混ぜに考えて勝ち負けに対して極端に考えている人々が昨今多いなと感じている。
ゲームとは所謂プロレスみたいなものだ。
勝ち負けも存続の危険性も将来の事なんて関係なく、勝とうが負けようが周りにアピールしパフォーマンスする様なものだ。
たかがゲーム。されどゲーム。本気に成り過ぎてはいけないのだ。
昨今は携帯ゲームアプリのお陰で何時でもゲームは出来る。だが当然デメリットがありあまり熱中し過ぎると仕事なりスケジュールなり、睡眠時間なり色々な要素で介入してくるだろう。
例え、あるゲームでは有利に立ってる人でも周りは余裕がないスケジュールなんて見えていないかもしれない。だがそういう裏ではちゃんとスケジュールを立てて遣り繰りしているだろうから、表面上では良い感じでもちゃんと少なくとも日陰はある。
だからと言って集団心理が働き、周りがそうだから自分もやる等と同調圧力に乗っ取ってやるなんてした場合絶対難しい所が少なくとも出てくる筈だ。
周りがどんなプレイするか、それを真似してみようとか無駄な要素まで深く考えず、まずは自分なりのスタイルを形成し、確立してから出来る所から周りの良い所を少しずつ取り入れていった方が成功しやすいと私は考えている。
例えチームを作るにしたっていきなり他の真似して高いハードルを作ったら入る人は限られるだろうし、高い戦力にはなっても今後の動向を覗く事やトラブルを未然に防ぐ洞察力、また協調性や信頼性が欠ければチームとは言えない。
自分がいくら優位に立てる人物だろうが、ただ自分が先を望もうとして先を進んでも周りが追い付かなきゃ意味は為さない。
何事にも【適度】というのは必要じゃないかという考え抜いた結論である。
もちろんちゃんと下準備も必要だ。周りから多数の成功例と捉えたリサーチであったり、どういう人を集めるのが目的であるか考えてからフレンドに登録したり(人がただ必要ならば条件なんて深く考えず集めていった方がいいとか信頼ある人を一定数は入れるなど)といった自分の都合ばかり、周りの都合ばかりと均衡が崩れたら成功への道は一気に崩れる。
とにかく【何事も深く考え過ぎず、前向きで且つマイペース】でじっくりと下り坂からボールが転がってくるように成功を待つというのがベストではないだろうか。
今回はここまで。
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